頭のない視座としてのセルフから自分がどこにいるのか?を直接実際に経験する「今ここ」を吟味する時、自分がいると思っていた場所にはいないことに気づきます。私はいつも常に「前」に開かれていて、自分で自分だと思い込んでいたイメージは、頭のない視座としてのセルフではないことに気づきます。外に見える他人のように頭のある姿で人格として捉えれる「自分」は、実はIFS(内的家族システム)で言う所のパーツ(複人格)なのです。
ノンデュアリティ(非二元)の教えには、「私はいない」という表現をすることで誤解を招く場合があるようです。自分で自分だと思い込んでいたイメージとしての「私」は、気づきそのものとしての、つまり頭のない視座としてのセルフでは「ない」という直接経験を指すのであって、気づきそのものとしての「私」は常にいつでも、生まれることも死ぬこともなく頭のない視座としてのセルフとして変わることなく今ここに在ります🙏
ここでは、IFS(内的家族システム)がセルフとの関係においてパーツ(複人格)達がどのように人生を歩むのかの歴史を、概略します✨